毎日トイレ掃除216|朝活144|心耳を澄ます

【トイレ掃除】

心耳を澄ます

致知出版社『人生の法則』より

もう何年も前の話である。

「言葉が運命を制する」なる特集を企画した。

特集のトップに誰を持ってくるか。

企画にふさわしい人物がなかなか決まらず、
大いに苦吟していた。

雨降る休日であった。

締め切りは数日後に迫っていたが、
特集トップはまだ決まらない。

窓を叩く雨足が焦燥感をさらにあおり、
ただ部屋の中をうろつくほかはなかった。

その時、たまたま一冊の本を手に取り、開いた。

森信三『一日一語』である。

その時の感動をいまも忘れない。

そこには深い人生の真理と哲理が凝縮された
言葉がちりばめられていた。

寸言は、まさに心にしみた。

森信三という人はこんなにも偉い人だったのか。
自らの不明を恥じた。

なぜなら、その本を含めて
森信三先生の本はすでに何冊か持っており、
ページもめくっていたが、
それ以前は何の感興を催すこともなかったからである。

日々の営みに追われ、忙殺されている時、
人は大事なものを見過ごしてしまうものらしい。

多忙な日常がつくり出す騒々しい心、
浮ついた心、がさついた心、
心がそういう状態にある時、
どんな出会いも命を孕むことなく
素通りしてしまう。

心耳を澄まさなければ
聞こえてこない世界がある。
見えてこない世界がある。

この時の体験はそのことを
痛いほどに教えてくれた。

諸葛孔明はわが子を戒めた手紙に
こう記している。

「寧静に非ずんば
以て遠きを致(きわ)むるなし」

寧静でなければ遠くまできわめることはできない、
遠大な理想を実現することはできない、
というのである。

呂新吾の『呻吟語』もこう述べている。

「躁心・浮気・浅衷・狭量、
此八字は、徳に進む者の大忌なり。
此八字を去るに、只だ一字を用ひ得。
曰はく静を主とす」

騒がしい心、浮ついた心、浅薄な心、
偏って狭い心では、徳に至ることはできない。

徳を身につけようとするなら、
ただただ静謐であれ、ということである。

いま、世情は先行きの見えにくさ、
とらえどころのない不安な予感にいたずらに騒ぎ立ち、
あるいはそこから目を背けて浮薄に浮き立ち、
流されていく気配が濃い。

このような時だからこそ、しばしでいい、
足を止め、心耳を澄ます時間を持つことが
必要なのではないだろうか。

心耳を澄ます時間・・・。
そのような時をもたなければ、見過ごしてしまうものがある。
そのような時をもたなければ、本来気づけるはずのことにも気づけはしない。
心耳を澄ます時間をもつことの必要性を感じた。
先行き不透明な時代であればあるほど、心耳を澄ます時間は必要だ。
変化著しい時代に突入している今だからこそ、心に留めておきたい言葉である。
心を耳を澄ます時間を、日々のトイレ掃除の中で見出そうと思う。

毎日トイレ掃除216日継続

人の前に立つ人間には、ほんの小さな変化にも気づく感性が必要だ。
小さな変化に気づけなければ、心のスイッチを押すような声をかけることはできない。
小さな変化に気づけなければ、自体を大きく損ねてしまいかねない。
小さな変化に気づく感性は、人の前に立つ人間には必要不可欠な資質だと思う。
だが、この感性を磨き高めていくというのは至難の業である。
サッカーのシュート精度を高めるとか、楽器の演奏精度を高めるとか、そういった技能を高めるといった類いのものとはまったく違う難しさがあるように思う。
感性は目に見えないからだ。
目に見えないものを評価することほど難しいものはない。
それでも、感性を磨き高めることは必須だ。
トイレ掃除が感性を磨き高めていくことにつながっているとは思わない。
だが、トイレの小さな変化に気づくようになったのは間違いない。
続ける。

朝活144日継続

朝散歩している時はくもりだったので、それほど暑さは感じなかった。
午後になり、外に出ると、まさしく猛暑。
『反脆弱性』という本を朝読書で読み進めている。
最初は難しい文章だと思っていたのだが、ようやく頭の中が整理されてきた。
今こそ必要な教訓だと思われることが、どしどしと脳に入ってきている。
小さな変化は必要だ。
小さな不安定さは必要だ。
目先のことに囚われてはいけない。

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